第6回 スポーツ科学の役割(後編)
「第5回『スポーツ科学の役割』(前編)」より続く
スポーツ科学の限界
それでは、スポーツ科学を競技力向上のためのツールとして用いる場合の限界とはどのような点にあるだろうか。
まず考えなければならないことは、競技現場で生じる種々の問題に対して、科学が最良の解決方法であるかどうかという根本的問いかけである。必要も無いの に科学は重要だからと言うことで盲目的に無用の分析を繰り返すことは労多くて益は少ないであろう。このことに対して、われわれ科学者は深い洞察と慎重な取 り組みが必要であり、そのためには当該の競技種目に関して競技経験を有する等精通していることが重要であろう。
次に、容易に想像がつくことであるが、人間という得体の知れないシステム(言い過ぎか?)を研究の対象としているので、単純に一つの答えが問題を解決す るのに役立つとは限らないということである。「この筋肉が弱い」とか「このときに膝が曲がり過ぎている」とか、局所的に指摘することはできても、真にその ことが競技者の競技力向上に直接的に関係しているとは限らない。むしろ、そのことを指摘してかえって競技力が低下してしまったというのは、多かれ少なかれ 競技現場に関わる科学者であれば誰しも経験していると思われる。このような一つ一つの欠点や不利な点を全体的観点に立って全てを予測しながら適切な情報を 還元することは、科学の立場からはほとんど不可能に近いのではないか。
最後に、科学的知見を過信してはいけないということである。科学は世界の事象の普遍的真理を探求するものであるが、その科学を確立したのはとりもなおさ ず人間である。人間が本来的に過ちを犯す存在であると言う観点に立てば、科学にも誤りはある。科学はある一側面から対象を観察することにはきわめて優れた 能力を発揮し、誰もが納得する資料を提供してくれる。しかし、別の観点から見れば対象の見え方は変化することがほとんどである。競技現場における指導 (コーチング)では、科学に見られるこのような側面的事実のみでなく、対象(競技者)を全体として包括的に捉えることが求められるために、いわゆる「科 学」と「現場」の齟齬やすれ違いが生じるのであろう。
科学研究(セオリー)と指導実践(フィールド)のギャップとは
「科学」すなわち科学研究と、「現場」すなわち指導実践とのすれ違いは、以前から指摘されている。次に、もう少しこのすれ違いについて考えてみたい。
これまでに述べてきたことからも推察できるように、その依って立つ理論的背景からいって、科学研究と指導実践において本来目指される方向(ベクトル)が 本質的に異なる。すなわち、科学研究は「普遍的真理」を探求するものであり、分析的観点に立って知識を構築しようとする。一方、指導実践では主として個々 の人間の「個別的真実」を探求するものであり、総合的観点に立って知恵を創出しようとする。
このような異なるベクトルを無理に変えようとするために、いらぬ軋轢を生じさせる結果になっていると考えられる。
これを解消するために最も手っ取り早い方法は、科学者とスポーツ指導者の両方の側面を持った人材を育成することである。現にこのような双方の能力とマイ ンドを持った人間は稀にいるかもしれないが、実際には、一人の人間にこれらを要求することはきわめて困難であろう。
多少抽象的になるかもしれないが、他の方法を考えてみると、科学研究と指導実践のベクトルの向きはそのままに、ベクトルの位置を動かして近づける(互い に歩み寄って双方を理解し合おうとする)ことによって、ベクトルの交点を作り出すというものが一つの方法である。しかし、、ベクトルを動かすためには多少 人間関係的努力が必要であり、かつ、それぞれの共通項を見出しながらうまく交点を作らなければならないであろう。そして、その交点となる共通項を誰がどの ように見出すかがこの方法の難しいところである。
もう一つの方法は、科学研究と指導実践のベクトルはそのままで、新たに他の場所にベクトルを作り出し(学際的な新しい学問領域の創造)、それぞれのベク トルから有用な知を射影して、新しい共有ベクトルに双方の知を注入するというものである。これには、その共有ベクトルをどこに、どのように作り出すかが重 要なカギであり、あまり有用な知を射影できないようなベクトルだと無意味な学問が出来上がってしまう恐れがある。
「同治」と「対治」の視点
以上、話をまとめられずに思うがままに筆者の意見を述べさせていただいたが、スポーツそのものは人間の行為により成立するので、究極的には、スポーツ科 学の在り方は個々の科学者の人間としてのあり方(科学者としての能力のみでなく人格や人間的魅力を含む)に行き着いてしまうと思っている。そして、これま での私を含めたスポーツ科学による競技現場へのサポート、すなわち科学サポートの在り方を考える上で、いま現在参考にしようとしている「同治」と「対治」 という視点があるので、最後に紹介させていただきたい。
もともとは、駒沢勝という小児科医のエッセイに掲載されていた考えを五木寛之氏が「生きるヒント」シリーズ(角川文庫)で述べているものである。以下に一部引用する。
これはもともと仏教のほうの言葉だそうですが、たとえば高熱を発したときに、氷で冷やして熱を下げるようなやり方を「対治」というのだそうです。
これに対して、十分に温かくしてあげて汗をたっぷりかかせ、そのことで熱を下げるようなやりかたを「同治」と言うらしい。
また、悲しんでいる人に、「いつまでもくよくよしてても駄目だよ。気持ちを立て直してがんばりなさい。さあ、元気を出そう!」というふうに励まして、それで悲しみから立ち直らせるのが「対治」的なやり方だそうです。
これに対して、黙って一緒に涙を流すことによって、その人の心の重荷を少しでも自分のほうに引き受けようとする、そういう態度が「同治」なのだという。
そして、「同治」のほうが、さまざまな場面で「対治」よりも良い結果をもたらすことが多いというのです。
・・・・否定から出発するのではない、新しい肯定の思想、「同治」の思想が、本当に人間を救うのではないか。と考えています。
これまでの科学サポートを振り返ってみると、西洋医学的な「対治」の考え方に偏り過ぎてはいなかっただろうか、では、東洋医学的な「同治」の視点に基づく 科学サポートとはどんなものでどのようにすればよいのだろうか、それは日本独自の科学サポートの在り方に発展しうるだろうか、そんなことをいまは考えてい る。
※本文は「月刊国立競技場」平成13年7月号に掲載されたものを転載しました。
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