アテネオリンピックExtra編(3) |
2004年8月30日 |
浅見 俊雄
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あさみ・としお
1933年生まれ.
国立スポーツ科学センター長.
(財)日本サッカー協会顧問、
アジアサッカー連盟規律委員会委員、文部科学省中央教育審議会委員など.
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29日にアテネを立って30日に帰国して、アテネ時間の眠い目を こすりながら最後の番外編を書いている。多い日は1日4会場を駆け回るなど、なるべく多くの種目を応援し、君が代2回をはじめ多くの日の丸の揚がるところ に立ち会えて、感激し続けたアテネの旅だった。メダル獲得数も金が2桁に乗るかどうか、全部で20~25個程度かという私の予想をはるかに越えてしまっ た。それどころか、2000年9月に文部科学省が策定した「スポーツ振興基本計画」の中で、10年後にはメダル獲得率を3.5%に向上させるという政策目 標を掲げ、JOCが「ゴールドプラン」でその目標の実現を約束したことが、4年で達成されるという快挙であった。今回のメダル総数は929個だから、日本 の獲得した37個はなんと4.0%であり金だけで言えば301個のうちの16で5.3%にもなるのである。
その要因についてはまた別の機会にどこかで書くつもりであるが、 JISSもそのことに幾分かでもお役に立てたたことを嬉しくかつ誇りに思っている。しかし何といってもこの快挙は競技者、コーチをはじめとする関係スタッ フの努力の賜物であり、各競技団体、それにそれらを統括してゴールドプランを推進したJOCのメダル獲得への積極的な取り組みが実ったものである。 JISSのしたことはそれらの活動を科学、医学、情報から下支えしたということであり、13回の「看板を掲げる」でも書いたが、あくまでも黒衣(くろご) の役割だと思っている。
アテネの現地報告に戻ろう。はじめて見た自転車のチームスプリン トにも興奮したし、レスリング、シンクロの奮闘に感動し、ソフト、野球の今一歩の敗戦にがっくりと肩を落とし、マラソンの野口の力走には、TVの前で JOCの職員達と届きもしない声援を送って、テープを切ったときには万歳をみんなで叫び、といった毎日だった。中でも私の心を強く打ったのは陸上のリレー だった。席が第2コーナーから直線に入るところの前から2列目で、400リレーでは目の前で土江から末続へのバトンパスが行われ、1600リレーでは各走 者がほぼ真正面から直線へと飛び込んでくる迫力あるシーンが間近に見られたということもあったが、なんといっても両方とも4位、特に1600では目では3 位か4位かわからず、電光掲示板で順位がわかるというような大健闘だったことに感動したのである。100は2次予選どまり、400はすべて2次にも進めな かった選手達が、4人の集団になったときに見せた一丸となっての激走だったし、それにほとんどが黒人選手の中で小柄な日本人が互角に勝負しているというこ とも心を揺さぶる大きな要因だったのだろう。
ホームに帰ってのアテネの祭典は大成功裏に多くの感動を残して終 わった。この番外編もまさに万歳編となったが、その余韻に浸っている時間はない。「タイムアップのホイッスルは次の試合のキックオフのホイッスルである」 というクラーマーの言葉はまさにここでも当てはまる名言である。北京への熱い戦いはすでに世界中で始まっているのである。 |