ツルのひとこと

第3回『赤信号はみんなで渡るか?』

浅見 俊雄


  浅見俊雄イラスト
  あさみ・としお
1933年生まれ.
国立スポーツ科学センター長.
(財)日本サッカー協会顧問、
アジアサッカー連盟規律委員会委員、文部科学省中央教育審議会委員など.

まず問題を出そう。赤信号で何人かが信号待ちをしている中にあなたが一人でいたとする。右を見ても左を見ても車は来ない。今渡っても絶対安全な状況である。さあ、あなたならどうする。信号を無視して渡るか、それともじっと青になるのを待っているか。

これがヨーロッパだったら、みんな自分で確認して渡り出すだろう(アメリカはあまり行っていないのでここでは触れない)。日本の場合はどうだろうか。多 分、誰か一人がしびれを切らして渡り出したら、ほかの人もそれについて渡り出すということになるだろう。そしてそれでもじっと信号の変わるのを待ちつづけ る人もいるに違いない。

このことについては何人かの外国人に、日本人はきちんと信号を守るねと感心(?)されたり、他のところではせっかちなのに、なんで渡れるのに待っている のだと半ばあきれ気味にいわれたりと、日本人の特徴を示す現象として取り上げられたことが何度かあった。

ここで最初の問題に対する私の解答を示そう。私の場合こうした状況でとる行動は一つではない。周りに誰もいなくて私一人なら、安全を確認すれば信号を無 視して渡ってしまう。何人かいる場合は、その中にお年寄り(私ももう年寄りの部類だが、年齢的にというよりさっさと身軽に渡れそうもない人といった意味で 使っている)や子どもがいなければ渡るし、いるときは我慢して渡らない。渋谷のような雑踏の中では、もうあきらめてじたばたせずに待っている。

なぜこんな話題を出したかというと、前回の「和」とも関係することだが、日本人はもっと「個」を大切に考えたほうがよいのではと思っているからである。 赤で渡るのは確かに信号無視で法律違反かもしれないが、本来の目的からいえば、安全に渡れることを保証する方法として信号があるのである。そして本当に安 全かどうかを判断し確認するのは自分であり、行動を起こすのも自分であるはずだ。

赤信号みんなで渡ればといった「付和雷同」型ではなく、「和不同」(和して同ぜず)の生き方を私は選びたいと思っている。

ページトップへ