第7回 運動能力と遺伝
運動能力と遺伝
同じ筋力トレーニングをしていても、筋がどんどん太くなる人もいれば、なかなか筋肉のつかない人もいる。人間は、食物や生活習慣などの「環境的要因」 と、生まれ持った素質である「遺伝的要因」の両方の影響を受けて形成されるが、身体の筋量には遺伝的要因が強く関与することが知られている。スポーツの指 導者たちは経験的な目でそれぞれの種目に適した選手たちの素質を見出している。この素質の実体を明らかにしようという遺伝子レベルの研究は、近年の科学技 術の進歩にともなって急速に進められてきた。
遺伝子とはなにか
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図1. 染色体と遺伝子とDNA |
背の高さといった体格や血液型など、親の生物学的特徴が子に伝わることを遺伝という。親から子へ伝えられる全ての遺伝情報の1セットをゲノムといい、そ の実態はDNA(デオキシリボ核酸)である。DNA上に所々に点在する,たんぱく質をつくるための特別な情報を持つ部分を遺伝子という。 DNAがきれいに折り畳まれて束になったものが染色体である。ヒトは父と母からそれぞれ23本の染色体セットを受け継ぎ、あわせて46本の染色体を一つ一 つの細胞の中に持っているのである。DNA上にはグアニン(G)、シトシン(C)、アデニン(A)、チミン(T)という4種類の塩基が約30億個並んでお り、その並び方が遺伝情報を表している(図1)。この塩基配列を全て解読しようという取り組みが、誰でも一度は耳にしたことがあるであろう「ヒトゲノム計 画」であったが、2003年4月ついに解読が完了した。この配列は誰の遺伝子を調べても99.9%まで同じであり、残る0.1%は人によって異なってい る。この違いが髪や目の色をはじめとする様々な個人差となって現れるのである。ちなみにヒトとチンパンジーとの間では塩基配列の違いは1.5%程度といわ れている。この0.1%にみられる個人間の塩基配列の違いのうち、同じ型の塩基配列の違いが集団のなかで1%以上の頻度でみられる場合を「多型」、それよ り少ないものを「変異」と呼んでいる。
運動能力に関与する遺伝子
それではどのような遺伝子が運動能力に関与しているのだろう。ここではこれまでに報告された例の一部を紹介する。
(1) エリスロポエチン(EPO)受容体の変異
1993年、フィンランドの元クロスカントリースキー世界チャンピオンのヘモグロビン濃度が通常より高値であったことが偶然判明した。原因はEPO受容 体遺伝子の変異に由来する家族性多血症であった。EPOは赤血球の産生を促進するホルモンで、EPO受容体と結びついて作用し、赤血球の産生を促進する。 EPO受容体遺伝子はEPO受容体の産生を支配しているが、彼の家系はEPO受容体遺伝子の変異があるために、つくられたEPO受容体は過剰な造血作用を 制御する機能を持っていなかった。そのため十分な量の赤血球が存在しても造血作用が進行し、多血症をもたらしたのである。赤血球が多ければ酸素をたくさん 運搬することができるため、この変異は彼の持久的能力を向上させる大きな因子の一つになったと考えられる。その他に、マラソン選手がEPO受容体の別の変 異を持っていたという報告もある。実際には変異は非常にまれな現象であり、スポーツタレントを発掘する手段としては現実的ではない。
(2) アンギオテンシン転換酵素(ACE)の多型
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図2. |
ACE遺伝子の多型
血液などから抽出した遺伝子の必要な部分を増幅し電気泳動したもの。遺伝子の型によってバンドの現れる位置が異なる。 |
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ACE遺伝子の多型も運動能力と関係があると考えられて非常に多くの研究が行われている。
ACEは血圧の調節に関与する酵素で、その遺伝子にはII型、ID型、DD型という3つの型がある(図2)。イギリスのグループが、持久的な運動である 7000m以上の高山への無酸素登頂に成功した人についてACE遺伝子の多型を調査したところ、DD型の割合が非常に少なく、8000m以上の山の無酸素 登頂成功者15名の中にDD型は一人もいなかった。続けて競技スポーツでもオーストラリアのボート選手やイギリスの陸上長距離選手のACE遺伝子が調べら れ、その結果、エリート競技者は一般の人に比べてII型の割合が高かった。このようなことからI型が運動能力を規定する因子の一つであると考えられるよう になった。しかしさらに研究が進むにつれ、エリート競泳選手にDD型の比率が高かったというそれまでとは異なる報告や、エリート競技者と一般の人の間に ACE遺伝子に違いは見られなかったという報告も多くみられるようになった。結局、ACE遺伝子の多型が運動能力に直接関与しているかどうかは今のところ 不明である。これを明らかにするためには,世界各地域によって異なっているACE遺伝子多型の出現頻度や,運動の種類を考慮した研究の報告が待たれる。そ れに加えて ACE遺伝子が運動能力に影響するまでのメカニズムを解明していく必要があると思われる。
遺伝子研究の活用
科学技術の急激な進歩によって遺伝子研究はめざましい進歩を遂げた。80年代には100年かかると言われていたヒトゲノムの解析は、15年あまりで完了 した。スポーツの分野においても今後次々と新しい知見が得られるに違いない。国立スポーツ科学センターでも小規模ながら、運動能力に関する遺伝子の検討を はじめている。
スポーツにおける遺伝子研究によって何が可能になるのだろうか。パワー系が向いているのか、または持久力系なのかといった、個人に適した種目が判断でき るようになるかもしれない。あなたにはこのトレーニングよりもこちらの方法のほうが効果的ですよというように「オーダーメイドトレーニング」を行うことが 可能になるかもしれない。また、競技者ではなくても、長い間健康な身体を保つためにどのような生活、運動をしていけばよいかの指針が得られるかもしれな い。
いずれにせよこれらの研究結果が実際に活用されるようになるには解決しなければならない倫理的、社会的問題が数多く残されている。一卵性双生児が全く同 じ遺伝子を持ちながらも別の人格を持つように、遺伝子は環境的要因によってその働き具合を変えることができる。ひとつの遺伝子を備えていたからといって必 ずトップレベルのアスリートになれるというわけではない。しかしある種の遺伝病のように、環境的要因の全く入る余地のないものがあるのも事実なのである。 生まれ持った遺伝子の配列はどんなに努力しても自分で変えることができない。どの遺伝子を調べるのか、あるいは調べるべきではないのか。結果をどのように 伝えていくのかなど,取り扱いには十分すぎるほどの配慮が必要であろう。
※本文は「月刊国立競技場」平成15年8月号に掲載されたものを転載しました。
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