田内 健二(スポーツ科学研究部)
はじめに
2004年に行なわれたアテネオリンピックにおける自転車競技では、チームスプリント(注1)において見事に銀メダルを獲得した。この銀メダルは、オリ ンピック前のチームの状態を知る関係者はもちろんのこと、監督、コーチ、はては選手達ですら予想しなかった結果であった。予選タイム(44秒355。次 レースでの44秒081は、この時点での世界記録を更新。ちなみに3ヵ月前に行なわれていた世界選手権では45秒219で7位)を電光掲示で確認した際 に、選手自ら「電光掲示が間違っているのではないか」とさえ言っていたそうである。(社)日本自転車競技連盟(JCF)は、このようなチームスプリントで の奇跡的な成功を収めた要因の1つとして、医科学委員会およびJISSのサポート活動を挙げ、次の北京オリンピックに向けて医科学の情報を積極的に活用し なければならないことを報告している。本稿では、2004年4月からオリンピックまでと、オリンピック後から現在までのサポート活動(主にバイオメカニク スサポート)の内容を簡単に紹介する。
アテネオリンピックに向けて
表1には、オリンピックまでのサポートスケジュールの概要を示した。2004年度のサポート事業としてJCFからバイオメカニクスサポートを依頼された が、オリンピックまでわずか5ヶ月弱とまさに時間との戦いであった。さらに、JISSのサポートスタッフは自転車競技に関して全くの素人であったことか ら、サポート活動に臨むにあたり、「1。現場で何が行なわれているのかを客観的(バイオメカニクス的)に把握する」「2。現場での課題を把握しそれをどの ようなデータによって具体化するかをできる限り早い時期に決定する」の2つの課題を設定した。
表1. サポートスケジュール |
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月/日 |
イベント |
目的および活動内容 |
5/8-9 |
全日本プロ選手権
(四日市) |
目的 |
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世界選手権での撮影のための事前活動
撮影方法、分析課題などの諸問題の洗い出し |
活動 |
: |
試合撮影→レースおよび動作分析 |
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5/23-31 |
世界選手権(メルボルン)
チームスプリント7位 |
目的 |
: |
世界トップレベルの競技者のデータ収集 |
活動 |
: |
試合撮影→レースおよび動作分析 |
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オリンピック代表選手決定 |
6/9 |
医科学委員との打ち合わせ |
目的 |
: |
世界選手権分析結果のフィードバック内容の確認 |
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6/18-22 |
オリンピック代表合宿(1)
(前橋) |
目的 |
: |
世界選手権分析結果のフィードバックおよび代表選手のスタート動作の分析、技術的課題の提示 |
活動 |
: |
練習撮影→ |
速度および動作分析、 |
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フィードバック(加工映像) |
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7/5-29 |
高地トレーニング(コロラド) |
8/8-10 |
オリンピック代表合宿(2)
(修善寺) |
目的 |
: |
高地トレーニング合宿の成果の確認(スタート動作) |
活動 |
: |
練習撮影→速度および動作分析、即時フィードバック(加工映像) |
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8/20-25 |
アテネオリンピック |
チームスプリント銀メダル |
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課題1のために5月中に行なわれた2試合では、あらゆる種目の レース分析や動作分析を行い、バイオメカニクス的な視点からみた自転車競技の特徴や現状を把握した。また、課題2のために6月の合宿(1)までに、コー チ、医科学委員の方と何度もディスカッションすることによって、膨大なデータの中から選手にフィードバックすべきデータを選定した。最終的に合宿(1)で は、世界トップレベルの選手との差が顕著であった自転車の速度(レースパターン)(図1)、スタート時と走行時の腰の位置、および映像データをフィード バックした。
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図1. チームスプリントにおける自転車速度の変化パターン |
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これは、合宿(1)がオリンピックの2ヶ月前ということで選手が 理解しやすく、解決すべき課題が明確にできることを配慮した結果であった。フィードバック後、本番までにスタート動作の改善が可能であろうと判断され、翌 日の練習時にスタート動作の分析を行い、科学的な知見にもとづく技術的な課題を提示した。
そして、約1ヶ月後の合宿(2)では、再びスタート動作の分析を 行い、合宿(1)から動作がどのように変化したのかを提示し(図2)、改善の方向にあることを伝え、オリンピックへと送り出した。オリンピック後、コーチ からは「スタートを苦手としていた選手が、本番では良いスタートをしたことが、銀メダルにつながった。JISSからのサポートがなければこのスタート動作 の改善はなかったかもしれない。」と過大な評価をいただいた。
北京オリンピックに向けて(アテネオリンピックから現在)
JCFでは北京オリンピックに向けて、新たな若手選手の発掘と育成を進めている。そのために、オリンピック後は若手選手を中心とした新しい代表チームが 編成された。新しい代表チームに対しては、オリンピックまでの活動と同様に、特に“スタート動作の改善”を課題としたサポートを行なっている。具体的に は、毎月行なわれる代表合宿を利用してスタート動作の撮影、分析結果のフィードバックおよび課題の提示、そして再びスタート動作の撮影という一連の作業を 1ヶ月あるいは2ヶ月に1度のペースで行なっている(2005年度末までに5回実施予定)。これらは、コーチが「分析結果を踏まえて、選手がトレーニング し、その結果を再評価して初めて科学的な分析の価値がある」という考えのもとで行なわれており、われわれとしても非常に有意義な活動となっている。
このようにスタート動作の分析を繰り返し行なってきたことで、現在では理想的なスタート動作が確立しつつある。また、コーチや選手からある程度の理解が 得られていることからも、“スタート動作の改善”という課題に対してバイオメカニクスが担うべき役割は概ね終了したといって良いと思われる(評価の手段と しては継続する必要はあるが)。そこで次の課題として、“いかに最高速度を高めるか”ということが挙げられている。世界トップレベルの選手の最高速度は、 一様に20m/s(時速72km)以上であるが、日本の選手で20m/sに達する選手は稀である。そこで、まず最高速度の向上をねらいとしたトレーニング 手段の特性を把握するために、トレーニング時の自転車速度を即時的に分析し、負荷やコース取りの変化に対する最高速度の変化などを提示することを試みてい る。
また、これらと平行してチームスプリントの引き継ぎ方をシミュレートした風洞実験にも着手している(図3)。このことは、チームスプリントでは走行しな がら次走者へと引き継ぐが、アテネオリンピックで金メダルを獲得したドイツチームは日本チームとは明らかに異なる引き継ぎ方をしていたことがきっかけで あった。今後、チームスプリントにおける引き継ぎ方をトレーニングするために、ドイツチームの引き継ぎ方にどのような意味があったのかをできるだけ早い時 期に理解しておく必要が生じたのである。
おわりに
競技力向上のためには、いずれの種目においても多くの課題が山積している。これらを一気に解決したいところではあるが、残念なことに科学は万能ではな い。課題に優先順位をつけ、それに適した手法、データを用いて1つ1つ着実に解決していくのみである。そういった意味で、自転車競技に対するサポートは未 だ始まったばかりである。
なお、世界規格の自転車トラックが日本にないことも付記し、アテネオリンピックでの銀メダル獲得がいかにすごいことであったのかを感じていただければと思う次第である。
(注1)チームスプリント
チームスプリントとは、1チーム3名で構成され、3名横並びから同時にスタートし、スタート直後から縦一列に隊列を組む。そして、1周回(250m)を終 えるごとに第一走者、第二走者が順にレースからはずれていき、最終的に第三走者のゴールタイムを競う種目である。つまり、第一走者は1周、第二走者は2 周、第三走者は3周することになる。
※本文は「国立競技場」平成17年11月号に掲載されたものを転載しました。
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