第17回  高気圧酸素療法

 

中嶋 耕平(スポーツ医学研究部)

 


  近年マスコミをはじめ、スポーツ活動に伴う障害や外傷からの復帰の軌跡や、その克服方法についてまでもが、スポーツ関連の話題として取り上げられる機会 が増えてきたが、そんな話題の一つとして、皆さんは「高気圧酸素療法」という言葉を耳にしたことがあるだろうか?何となくイメージの湧かない方も、<国際 的人気の英国人サッカー選手が、2002年ワールドカップ直前に受傷した下肢骨折に対し、早期復帰を目指してこの治療法を用いた>というエピソードは耳に した方も多いであろう。

  JISSには、この「高気圧酸素治療装置」が設置されており、実際に臨床的利用も行っている。本号では「高気圧酸素療法」について解説する。

予備知識として

  一般に我々が生活している自然環境(平地)では、大気圧は約1気圧(ATA)、その中で空気中に含まれる酸素濃度は約21%といわれている。人間は、こ の空気から酸素を体内に取り込むわけであるが、その首座を担っているのが肺(肺胞)であり、ここで酸素は血液中に拡散し、血液中のヘモグロビンと結合して 末梢組織に運ばれる。

  通常の環境圧(1気圧・空気)下では血液中に取り込まれる酸素の量は、ヘモグロビンの量や酸素結合能に規定されるが、吸い込む気体中の酸素濃度が上昇し たり、環境圧を上昇させることで血液中に溶解する酸素の量、すなわち血液中の酸素分圧(PaO2)が増加する。「高気圧酸素療法」とは、文字通り呼吸する 環境圧を上昇させた状態で、なおかつ呼吸する気体の酸素濃度を上昇させることである。

高気圧酸素療法の適応


  「高気圧酸素療法」は、高気圧状態と高濃度酸素の作用を有しているため、いずれか一方、もしくは両方の作用に対して需要のある疾患がその適応となる。例 えば、ダイバーや潜水夫が、深い水中(高圧環境)から急速に水面(正常気圧)に浮上すると、高気圧環境下で血液中に溶解していた窒素ガスが、体液中で遊離 して体内(脳・骨・血管内)で気泡となって蓄積し、様々な病態(空気塞栓など)を呈する『潜函病』では、「高気圧酸素療法」は有用な治療法として用いられ ている。

  また、『ガス壊疽』などの嫌気性菌(酸素環境下では生育出来ない菌)をはじめとして、多くの難治性の細菌性感染症では、損傷組織に高圧下で高濃度の酸素を送り込むことで治療効果が得られている。

  その他、脳梗塞などの脳血管障害や虚血性疾患なども適応疾患とされており、単一の診療科領域に限定されずに適応疾患を有するのが「高気圧酸素療法」のユニークな点、すなわち魅力であるとも言える。

高気圧酸素療法の実際

  治療装置には幾つかの種類があり、一度に数人が入ることが出来る気室型のものから、一人のみが入ることが出来るカプセル型のもの、更には持ち運びも可能 なテント型のものなどがある。ただし、テント型のものでは、その構造特性により加えることが出来る圧は限られ1.3(ATA)程度までである。さらに、室 内(環境圧)を純酸素で加圧するものと、環境圧は空気で加圧し、患者が吸い込む気体のみマスクにて純酸素を送り込むものがある。

  ちなみにJISSに設置されている「高気圧酸素治療装置」はカプセル型で、環境圧の加圧は空気で行い、患者の口腔付近にあてがわれたマスクからは毎分10リットル以上の純酸素を流す方法で行っている。

高気圧酸素療法の危険性

写真1 治療内容・危険性の説明と同意書の取得
写真1   治療内容・危険性の説明と同意書の取得
 
写真2 実際の治療風景
写真2   実際の治療風景
 
  一般的に酸素の持つ特徴として、小学校の理科でも学んだ「助燃性」が挙げられるが、加圧された状態で高濃度の酸素が存在し、その中で引火するような事が 起これば、目も覆いたくなるような惨事に至ることは容易に想像がつくであろう。このため、治療の際には厳重なボディチェックを行い、金属、非金属を問わず 装身具から整髪料や化粧品に至るまで全て排除するよう指示される。また、室内には静電気を発生しやすい化学繊維も持ち込めないため、予め用意された治療衣 に着替えて治療を行う。

  前述の潜函病の病態からも理解されるように、高気圧環境下から急速に通常気圧に戻すことは不可能であるため、病状が急変するような疾患や発作性の疾患を持病として有する者は治療を受ける事が出来ない。

  また、生体は高気圧高濃度酸素下に長時間おかれると、逆に酸素中毒などといった酸素による組織障害が惹起される。このため治療プロトコールは充分な安全領域で行う必要がある。

  現在JISSのスポーツクリニックで実際の臨床で行われている「高気圧酸素療法」の流れを簡単に説明すると、(1) 「高気圧酸素療法」の効果と危険性の説明、書面による同意書の取得。(写真1)(2)ボディチェックと治療衣への更衣。(3)チャンバーへの入室。(4) 患者の状態を観察しながら加圧(2ATAまで約15~20分)(5)2ATAで約60分の治療。(写真2)(6)減圧(通常10~15分)。で治療の全所 要時間は約90分である。

スポーツ医学分野における高気圧酸素療法

  スポーツに伴う障害・外傷(スポーツ傷害)は多種多様であるが、急性期の傷害では、多くの場合、損傷部位の腫脹、疼痛が認められ、当然ながら損傷組織で は虚血が起きていると考えられる。また、治癒までに要する期間は、損傷部位において上記の腫脹・疼痛・虚血の程度が小さいほど短くなると考えられており 「高気圧酸素療法」では、全身的な加圧と組織への酸素供給効率の上昇が図れるため、損傷組織の修復課程に良好な影響が期待できる。スポーツ分野では 1980年代頃より「高気圧酸素療法」利用され始め、特に肉離れなどの筋組織損傷については、基礎的にも臨床的にもその有用性について多くの報告がある。 また、骨組織や靭帯への効果についての報告は少ないながらも、基礎的研究も踏まえてその有用性が報告され始めている。その一方では「高気圧酸素療法」の有 用性を否定する報告も存在し、治療条件(圧の設定や時間、頻度)の違いが結果に影響を及ぼしているのだとも考えられる。

JISSにおける高気圧酸素療法の活用と今後の課題

靭帯損傷部位(n) 疼痛におけるVASの値
HBO直前 HBO直後
膝(8) 36.7 25.6
足関節(4) 39.6 24.0
足根関節(1) 48.0 26.0
全体 41.4 25.2
表1   靭帯損傷症例の疼痛における高気圧酸素療法〔HBO〕の効果
 
  JISSではトップアスリートにおけるスポーツ傷害を対象として「高気圧酸素療法」による治療を行うと共に、その有用性について検討を行っているが、評 価方法や治療プロトコール、適応疾患の設定段階であり、現時点ではこれらについて明確かつ詳細な結論を完結する段階には至っていない。ただし、患者(選 手)の主観的評価(VAS;Visual Analogue Scale)を用いた検討では、腫脹を伴った四肢の靭帯損傷(特に膝・足関節)では治療前と治療直後で疼痛(自己評価)が軽減しており(表1)、実際に治 療に立ち会っていても劇的な症状の改善を患者自らが訴える例も多い。今後は更に対照群との比較、他覚的所見による客観的評価やプロトコールについての検討 を推進する必要があると考えている。

  また、高気圧酸素療法は近年になってその普及に拍車がかかりつつあるが、使用方法を誤れば、非常に危険を伴う治療でもあるため、トップアスリートをはじ めとして多くのスポーツ愛好家が安易な心構えや、誤った解釈で治療を受けることのないよう適切かつ正しい情報を提供できるように努力したい。



※本文は「国立競技場」平成16年5月号に掲載されたものを転載しました。

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