第12回 10秒間のスポーツ科学 はじめに 今から10年前、1991年、国立競技場で開催された世界陸上東京大会でカール・ルイスが9.86秒の世界新記録(当時)で100mを駆け抜けた。この レースでは2名が世界記録を突破し、さらに、上位6名が10秒を切るという史上まれにみる大接戦ということで記録的なレースであった。ルイスはスタート、 中間では遅れをとっていたが、得意の後半の追い上げで先行するリロイ・バレルに90m付近で追い付き、最後の10mで逆転した。このレースを見る限りにお いて、ルイスの後半のスピードは他の選手に比べてみるとどんどん速くなっているように感じられた。 日本選手のレースを見ていると、前半から中盤までは、世界のトップになんとかついているが、後半になって差は広がるように感じられた。このように主観的 にみると日本選手の課題は後半のスピードであり、世界に通じるには、後半に強いランナーになる必要性があると思われる。 このような疑問を科学的にみるため、91年世界陸上東京大会では日本陸連のバイオメカニクス研究班はビデオカメラを用いて10mごとに通過タイムを分析し、レース中のスピードの変化を分析した。私もこの研究班の一員としてこの活動に参加した。 ビデオカメラによる分析 ビデオの録再生装置(ビデオデッキ)は家庭用も業務用も極めて高い精度で毎秒約30コマ(60フィールドの30フレーム)の録画と再生が可能である。こ の精度を利用することでスタートから決められた地点の通過時間を高い精度での計測が可能となる。 スピード分析するために、通過タイムの計測はスタートから10mごととし、疾走方向の鉛直線上のスタンド最上段の通路にカメラを設置した。この大会の科 学的データ収集のため、国立競技場のトラックのホームストレッチの各レーンの中央にスタートから10mごとに1辺が5cmほどの正方形の白いマークがつけ られていた(いまは残っていない)。このマークのおかげでカメラの設置の正確性は高く、さらに分析精度も高いものとなった。 レース中のカメラ操作 ラップタイム分析するために、スターターのピストルからでる閃光または煙幕から計測地点をランナーが通過するまでをビデオ映像のコマ数から計測した。ス タート合図の撮影時には、電子シャッターを用いると、スタートの閃光がまったく記録されない場合があった。そのため、スタート信号を記録する場合にはビデ オカメラの電子シャッターを用いず、スタートの後、直ちに電子シャッターを入れるようにした。このような操作が必要なため、91年の100mレースの直後 にあった世界記録のアナウンスに、私は歴史的なレースを分析できることの興奮と、同時に分析用のビデオ機材すべてが打ち合わせどおり撮影されていることを 祈ったことを記憶している。 タイムの分析法 分析には実際に記録された映像にビデオタイマーまたはフレームカウンターの数字を映し込んでダビングした映像をもちいた。スターターのピストルが光った 時間とランナーが計測地点を通過する時間をビデオデッキのコマ送り機能を用いて数値を読みとった。 分析結果 図1にはスタートからの時間でみた上位3名と日本選手のスピード分析の結果を示した。どの選手もスタートから4秒くらいまでのスピード変化は顕著であっ たが、それ以後は僅かな増加であり、8秒くらいまでほぼ一定の値であった。しかし、8秒を過ぎるとどの選手もスピードは低下する傾向がみられた。ルイスは 5秒から7秒くらいまでの間のスピードが他の選手より高い値の12m/sであった。しかし、最後の20mで、ルイスといえどもスピードは低下していた。す なわち、ルイスは後半に追い上げてスピードが増加しているかのように見えてはいたが、実はスピードは僅かではあるが落ちていた。しかし、他の選手はもっと 低下していたのである。いくらスピードが落ちても他の選手よりも速ければ先行する選手に追いつけるし追い越すこともできるのである。  疾走速度と記録の関係 このような分析結果が得られてことから、バイオメカニクス研究班では日本のジュニアアスリートを含め91年から現在まで100m疾走スピードの分析を 行っている。ここで得られたレース中の最大スピードと100mの記録について世界レベルの選手と日本のジュニアを含めて両者の関係をみたものが図2であ る。  両者の間には直線的な負の比例関係があり、統計的に有意な相関が認められた。このことはいい記録のスプリンターほど最大スピードも高いことを示す結果で ある。すなわち、100mレースでは後半のスピードではなく、中間のスピードが高いことがよい記録を得るための条件であるといえる。 最後のスピードの低下する値や低下率などをみても記録との関係は認められなかった。一方、スタートとからのスピードが増加するところではその増加の度合いの多き方が良い記録をだすという傾向も見られている。 これらのことから、日本選手の課題はレース中の最大スピードを高めることであると示唆される。さらに、後半のスピード低下を少なくすることはレース中の 順位を上げることにつながるであろうが、最高スピードの向上は記録を0.1秒単位で伸ばしてくるであろうことも示唆される結果であった。 最後に 僅か10秒足らずで勝敗が決まってしまう陸上競技100mである。しかし、レースを科学的に分析することにより、トレーニング課題を明確にできるのであ る。このような方法では10m間隔でしか分析できないが、最新式のレーザーを使ったスピード計測装置をもちいれば、0.1秒ごとのスピードの変化が分析可 能となる。この装置を使ってさらに科学的分析が進められると、またもや新たな発見があるだろう。こんどはどんなことがわかるのか楽しみである。
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