第37回 |
北京オリンピックに向けてうれしい話 |
2008年7月3日 |
笠原 一也
|
 |
|
かさはらかずや
1938年 埼玉県生まれ
国立スポーツ科学センター長
和歌山県保健体育課長,文部省競技スポーツ課長,JOC事務局長、東京女子体育大学教授など歴任し現職.
|
前回のコラムでアテネオリンピック金メダリスト、水泳の柴田選手が苦しみながら北京オリンピックの代表権を獲得したことを話題としたが、苦しみながら代表権を獲得したもう一人の選手を話題にしたい。
それは、東京女子体育大学での教え子で、笠原ゼミの卒業生、フェンシングエペ競技の原田めぐみ選手のことである。彼女はアテネオリンピックに続き二度目のオリンピック出場となる。
原田選手は、学生時代に二つの目標を持っていた。大学院への進学とオリンピック出場である。大学院は筑波大学に進むことができたが、フェンシングは、イ ンカレで優勝する実力はあったものの世界では、という力量であり、当然、オリンピックへの道は険しかった。
そこで、フェンシングは西欧剣術といわれているくらいだから、強くなるためにはヨーロッパへの武者修行しかないだろうとアドバイスをしたら、望んで入学 した大学院を休学し、インターネットでトレーニング先を探して、本当に1人でヨーロッパに武者修行に旅立ったのである。あるときは男性の振りをしながら世 界各地を転戦し、諸外国に友達をつくり、情報を収集し、ついにアテネオリンピックの代表となったが、結果は二回戦敗退となってしまった。
本人は、アテネでの遣り残しがあると、その後北京オリンピックを目指し、トレーニングを重ね、実力もつけてフェンシング協会からも活躍が期待されるまでに伸びてきたのだが、好事魔多しである。
2006年ドーハのアジア大会の代表に選ばれたが、大会目前にして脚の十字じん帯を切断してしまい、代表を辞退することとなってしまった。
手術はJISSの副主任研究員である奥脇ドクターが執刀し成功したのだが、北京を目指すのは厳しい状況になったのである。
その後は、私への連絡もなしで黙々とリハビリに励み、トレーニングを積み、ついには最終のオリンピック選考となるアジアオセアニア地区大陸予選会で見事 優勝し、北京への代表権を勝ち取ったのである。もともと根性とバイタリティは人に負けないものを持っていたが、どん底を味わい、まさに艱難辛苦を乗り越え て勝ち取った代表。現地から喜びのメールが届いた。うれしい話である。
今までの辛さを吹き飛ばすように、ぜひ北京オリンピックでは思いっきり暴れて欲しいものである。
|