博物館ニュース 第31号

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友情のメダル、8年ぶりの再会

 現在、早稲田大学では、同大学のスポーツの歴史についての特別展「早稲田スポーツ 栄光の瞬間!」が平成18年12月16日(土)までの期間で開催されています。

 同展には、当館の所蔵資料から、早稲田大学出身のオリンピックメダリスト、 高石勝男(1928年、競泳800mリレーで銀メダル・100m自由形で銅メダル)、織田幹雄(1928年、三段跳で日本人初の金メダル)、 南部忠平(1932年、三段跳で金メダル・走幅跳で銅メダル)らが獲得したメダル等が展示されています。(平成18年11月22日(水)から展示)

 しかし、今回当館が貸し出したオリンピックメダルの中で、一つだけ、慶應義塾大学出身者のメダルがあります。 はたしてそのメダルがどのように早稲田大学とかかわりがあるのでしょうか? つぎのエピソードをご覧ください。

ベルリンオリンピック棒高跳表彰式 表彰台手前が西田、中央がメドウス、奥が大江
ベルリンオリンピック棒高跳表彰式
表彰台手前が西田、中央がメドウス、奥が大江

 西田修平(早稲田大学)と大江季雄(慶應義塾大学)は、お互いに競い合い、日本の棒高跳を世界レベルまで引き上げたよきライバル同士でした。

 西田と大江は、オリンピック第11回ベルリン大会(1936年)の陸上競技・棒高跳に出場、5時間にわたる激闘の末、アメリカのメドウスに敗れましたが、二人ともメダル獲得が確定しました。

 4m25cmの同記録だった二人は、2位・3位を決めるための決定戦を止めましたが、試技回数の少ない西田が2位、大江が3位とされました。しかし表彰台では、西田は大江を2位の台に立たせています。

 帰国後、ベルリンでの激闘の思い出に、二人はお互いの銀メダルと銅メダルを半分に切断してつなぎ合わせました。これが「友情のメダル」です。

 その後、大江は、太平洋戦争が始まって間もない1941年12月24日、出征先のフィリピンで27歳の若さで戦死しました。戦地でもベルリンで使用したスパイクを戦死の瞬間まで肌身離さず持っていたと伝えられています。

 西田は戦後、日本陸上競技連盟理事長、日本オリンピック委員会委員などをつとめて陸上競技とスポーツの発展につくし、1989年にはその功績を記念して国際オリンピック委員会からオリンピック・オーダー銀章が授与されましたが、1997年4月13日に87歳でなくなりました。

 二人の「友情のメダル」は、大江のメダルが当館に所蔵されており、西田のメダルは2005年、ご遺族により彼の母校早稲田大学に寄贈されました。

 ここまでお読みいただければお気づきかと思いますが、「早稲田スポーツ 栄光の瞬間!」では、この「友情のメダル」が二つそろって展示されているのです!

 二つのメダルがそろったのは、8年前の1998年、大江の出身地である舞鶴市(京都府)で行われた同市主催行事、 「『友情のメダル』を語り継ぐ集い」 (このときはメドウスの金メダルもはるばるアメリカからやってきました。)以来で、二つのメダルがそろって一般に公開展示されるのは今回がはじめてとなります。

 この機会に、70年前の日本のトップアスリート二人の友情の証をぜひご覧ください!

(文中敬称略)

二つそろった友情のメダル(左:西田のメダル・右:大江のメダル)
二つそろった友情のメダル
(左:西田のメダル・右:大江のメダル)

 

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