(財)全国高等学校体育連盟
サッカー専門部
前部長 平山 隆造
平成22年度第89回
全国高等学校サッカー選手権大会
決勝 兵庫代表滝川第二対京都代表久御山 |
平成22年度第89回
全国高等学校サッカー選手権大会
決勝の熱戦 |
平成22年度全国高等学校サッカー選手権大会は、全国4185校の中から選ばれた48校により、12月30日国立競技場で開会式を挙行、1 月10日に決勝戦を行いました。決勝当日国立競技場に戻ってきたのは兵庫代表滝川第二高校と京都代表久御山高校…、戦後初の関西対決は滝川第二高校の初優勝で幕を閉じました。組み合わせのあやもありますが、今大会は優勝候補といわれた高校が、例えば滝川第二高校対青森山田高校のように早い段階で激突し、早々に消えていったのは残念でなりません。
私は3年前まで全国高等学校体育連盟サッカー専門部の部長を4年間務めさせていただきました。教職に就き、高校サッカーに手を染めて36年、全国高等学校サッカー選手権大会が東京開催になって35年、正月のほとんどを国立競技場で過ごしてまいりました。
1 年のうちたった数日を過ごすだけではありますが、そこには人との新たな出会いあり、同様に喜怒哀楽ありで人生そのもののような気がします。
しかしながら私の国立競技場は、昭和42年、高校1年にさかのぼります。10月7日メキシコオリンピックアジア最終予選を迎えました。どうやってチケットを手に入れたかは覚えていませんが、日本対韓国の事実上の決定戦に電光掲示板側の比較的前のほうの席で観戦していました。秋雨がそぼ降る中、韓国選手のシュートが間近のゴールをたたいた時「やられた!!」という感覚が今も残っています。
その後永年サッカーに携わってきましたが、これが最初の「やられた!!」感覚ではなかったかと思っています。その後メキシコオリンピック代表権を手にした日本代表が今もイングランドプレミアリーグ上位チームのアーセナルと対戦した試合を満員の国立競技場で観戦し、ボビーゴールドのいわゆる「アーセナルゴール」なるものに息をのんだものでした。
正確な期日は忘れましたが、ペレがサントスの一員として来日した試合も当時岸記念体育館にあったJFAの前に並び、チケットを取って観戦しました。大学の先輩がどういう事情かわかりませんが、カメラマンとしてゴール裏に陣取り、振り向きざまに頭でコントロールしながらシュートを決めたゴールをカメラに収め、のちに額に入れていただきましたが、今でも家に飾ってあります。今になっては宝物のような存在です。
1975 年1月、まさかまさかのバイエルンミュンヘンが国立競技場に来ました。ベッケンバウアー、ゲルトミュラーらメキシコ・ドイツ両ワールドカップを沸かせたドイツ代表が連なり、学連の一員として役員に名を連ねていた私はロッカーアウトの際、間近に彼らを眺めることができました。
テレビで見る雄姿とは異なり、我々と比べてもさほど大きくない彼らを眺めていると、もしかしたら日本代表が勝てるのではないかと錯覚を覚えたものでした。
しかし、ピッチ上で見た彼らは実物を見ているにもかかわらず、そのプレーの質はテレビの彼らほどの大きさにまぶしい思いを感じた記憶が鮮明です。試合終了後ロッカーに引き上げるベッケンバウアーに紺のジャンパーに黒のマジックインキでサインをしてもらいました。感動の嵐が渦巻いていましたが、家に帰りじっくり眺めてみるとどこにサインがしてあるかわからずがっかりしたのも国立ながらの心地よい思い出として記憶に残っています。
やがて教員になり、東京高体連サッカー専門部員としてお手伝いさせてもらう中、1991 年ワールドユースU-17(現U-17ワールドカップ)の役員としてピッチ上に立ち、マラドーナの一挙手一投足に目を見張り、警備員として場内に乱入してきた観客を、勇気を振り絞って追いだしたことも今になっては笑い話です。
さて高校選手権ですが、鮮烈な記憶として残っているものが二つあります。一つは東京開催になった年の決勝、伝説の浦和南対静岡学園の一戦です。今まで見たこともないドリブル主体の静岡学園の攻撃には目を見張りましたが、それに屈せず戦い抜き、5 対4という決勝史上類稀なスコアで優勝した浦和南高校には敬服以外の何物も存在しませんでした。高校サッカー国立元年を彩り、今後に大きな期待を抱かせる戦いとして語られるのではないでしょうか。
閉会式終了後、栄光を称え合う両チーム |
もうひとつは2003年1月13日、成人の日開催に踏み切った年の高校選手権決勝、市立船橋対国見の試合です。クラブユース勃興の折、高校選手権の動員力も減少傾向をたどり、今年もまずまずの観客数を見込めればとたかをくくっていた矢先、観客が後から後から押し寄せ、用意していたチケットが足りなくなる事態に皆大慌て、結局入場しきれなかった人たちが続出し、入場できた人でも後半開始になってからという大失態となってしまいました。
その時会場長であった私はチケット購入に列をなしているお客様に平謝りの連続でしたが、お客様のストレスは爆発寸前にまで達しており、私は恐怖の余りぶら下げていた「会場長」というADカードを裏返して対応した覚えがあります。
カレンロバート(市立船橋)、平山相太(国見)という当代の人気者がいたこともさることながら、成人の日開催が最大の原因ではないでしょうか。この後成人の日開催、続いた準決勝土曜日開催が高校選手権動員力安定の一因となっており、牽いては高校選手権の根強い人気の原動力となっています。
J リーグや日韓ワールドカップを契機に発展の一途をたどってきた日本サッカーですが、2022 年招致ではつまずいてしまいました。開催期間が近いというのも一理ありますが、やはり首都に決勝を行えるスタジアムがないことのほうが致命的のような気がします。
国立競技場で幾多の試合を見、役員をしてきましたが、国立競技場はいつまでもこのままでいてほしいと願う傍ら、来るべき2回目のワールドカップの決勝を首都でと考えると、改築はいたしかたなしかなという思いもあります。仮に新たな競技場もその名前が「国立」でいて欲しい…、切なる願いです。
(写真提供:高校サッカー年鑑)
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