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国立代々木競技場の歴史詳細

~建設用地~

 1964年の東京オリンピックが開催されることに伴い、当時新装となった国立競技場で行われる陸上競技と並んで、わが国の有望な競技とされていた水泳を行う大水泳場の建設が必要とされました。
 また当初は、東京オリンピックで悲願の公式種目となった柔道も行えるような施設を目指し、2万人収容の「屋内総合競技場」を新設する計画が立てられたのです。

 昭和33(1958)年当時、屋内総合競技場建設用地として予定していた神宮外苑内の新宿御苑(旧近衛兵連隊跡)は多くの問題があったため、文部省をはじめオリンピック組織委員会による用地探しが始まります。
 第一体育館建築風景の写真
【第一体育館建設風景】
 当時、東京都内の広大な利便性のある土地は、ほとんど在日アメリカ軍に接収されており、特に広大な敷地を必要とする選手村の用地はアメリカ軍との交渉が必要でした。そのような状況の中、昭和34(1960)年の東京オリンピック招致決定から、用地選定は紆余曲折しながら約2年間のアメリカとの交渉の末、昭和36(1962)年10月にようやく現在の代々木公園、青少年センター、NHK、織田フィールド等の施設のある「ワシントンハイツ」に、選手村と屋内総合競技場が建設されることに決定しました。            


~屋内総合競技場建設の基本構想~

 屋内総合競技場の建設にあたっては、文部大臣裁定による「ワシントンハイツ屋内総合競技場建設協議会」が設けられ、同競技場の基本構想について諮問を受け、検討が着々と進められました。昭和36(1962)年7月20日、同協議会は13回の分科会と5回の総会によって得られた結論を第一次答申にまとめ、文部大臣に提出し、施設の規模について次のように謳われました。

1 国際的水準にふさわしい建物を建設すること。
2 本館のほか付属体育館を建設すること。
3 本館の水泳場は、競技プール(50メートル)および飛込プールとする。
4 本館の観覧席は15,500~17,000人とする。
5 付属体育館はバスケットボールコート1面とする。
6 付属体育館の観覧席は3,500~3,800人とする。

 文部省はこの基本構想に基づき昭和37年度予算要求することと平行して、屋内総合競技場建設の実際的な「基本設計」「実施設計」を行う設計者を、新たに設置した「建設設計者選考委員会」で選定し、以下の方々が設計担当者として文部大臣から委嘱されました。


(建設・総合意匠)  丹下健三氏(東京大学助教授)
(構造)         坪井善勝氏(東京大学教授)
(設備)         井上宇市氏(早稲田大学教授)

日本建築界の代表3氏による基本設計は、後に世界に例のない雄大華麗な共同作品をつくりあげることとなります。


~いよいよ建設へ~

 昭和37(1962)年文部省では、「基本設計」「実施設計」を前出の設計者3氏に依頼します。3氏による実施設計は、平行して行われた地質調査とともに順次具体化されていきましたが、その内容はかつて前例のない「高張力による吊り屋根方式」という極めて複雑な構造を持った建物であり、施工上最高度の技術を必要とするものでした。外観も、スポーツ精神を象徴し、集まる人々が誘い込まれるような優美な曲線をもった颯爽たるものでした。
 しかし、地質調査の結果、建設用地の地下に激しい湧水があることが確認され、その対策にかかる費用が新たな問題となったこと、また入札が大会まであと20ヶ月と迫ったところで指名大手5社(大成建設・大林組・鹿島建設・竹中工務店・清水建設)により行われましたが、多くの制約下での入札は難航し、当日は落札できず翌日ようやく次のように契約が成立したのです。

本館(第一体育館)・・・清水建設株式会社
別館(第二体育館)・・・株式会社大林組

 昭和38(1963)年2月1日、建設工事は開始されました。工期は、オリンピック大会を控えた18ヶ月という絶対に延ばすことは許されない期間。当時の状況としてはこの工事を18ヶ月で完成することは常識的にみて不可能とされていました。
 昭和39(1964)年5月、来日したIOCアベリー・ブランデージ会長はこの工事現場を視察して「アメリカ人がやるのなら絶対に間に合わないと思うが、私は日本人の能力を信じている」と言い残して日本を去りました。
 施工にあたっては、誰もが経験したことのない数多くの問題に遭遇しながらも、先の3氏を中心に実験・研究・確認を繰り返しながらあらゆる新鋭機器を動員して、建築界の全知能を傾けての工事となりました。
 7月に入ってからは工事はいよいよ24時間態勢の突貫工事に入り、まさに戦いを控えて完成を急ぐ築城工事を彷彿させるものがありました。
施工者、設計者、監理者その他多くの作業員の一体となっての挺身努力により、日に日にその雄大な姿を形づくっていったのです。

 ついに昭和39(1964)年8月31日、オリンピック大会まで39日を残して完成しました。
 当時では世界に類のない高張力による吊り屋根方式で、明治神宮の森の美しい環境を生かした高い芸術性を保つ、日本を代表する建造物が誕生したのです。

 同年9月1日、同競技場は特殊法人国立競技場に政府出資され、「国立競技場代々木競技場」としての第一歩が踏み出されました。
第一体育館建設風景の内部写真 完成した代々木競技場(昭和40年頃)の写真
【第一体育館建設風景(中央下部は飛び込み台)】 【完成した代々木競技場(昭和40年頃】
 
第一体育館建設風景の写真
【2本の支柱に渡されるメインケ
ーブル(第一体育館)】

アンカーブロックの写真
【メインケーブルを支えるアンカー
ブロック】

~吊り橋の技術を活かした空間造り~

 建設当時、世界でもまだ例の少なかった「吊り屋根方式」を用いて建設された競技場。一体的な巨大空間を、観客と競技者とが共有でき、1万5千人の観客の流動が機能的にも心理的にも円滑に行われる空間を、設計者である丹下健三氏が探求した結果、この「吊り屋根方式」に行き着きました。

 第一体育館の吊り屋根は、大きな2本の支柱の間に全長280メートルのメインケーブル2本が渡され、屋根を支えています。さらに両端は地中へと伸び、屋根を引っ張り上げ、そのメインケーブルに梁を渡して鋼板を張っています。

 第二体育館も、1本の支柱から螺旋状形に吊りパイプが架けられ、屋根面が吊り渡されています。

また、第一体育館のメインケーブルは、いくつものワイヤーロープの集合体で、アンカーブロック(巨大なコンクリートの塊)で支えられており、このケーブルを土とアンカーブロックの重量で抑え込んでいます。

吊り材には、あらかじめ成型した鉄骨を使用し、当時の吊り構造の技術では成し得なかった屋根曲線を作り出しました。

 こうして出来上がった第一体育館の屋根は、まるで瓦屋根の大棟(おおむね)と鴟尾(しび)のようであり、スタンド外壁は格子を思わせるデザインとなっていることなど、日本の造形美を表現した建築として、国内外から高い評価を得ることになります。
  
~東京オリンピック後の施設運営~

 昭和39(1964)年10月、東京オリンピックが華やかに開幕し、本館(第一体育館)では水泳競技、別館(第二体育館)ではバスケットボール競技が行われました。

 また、オリンピックに引き続き、11月には代々木競技場を中心に「国際身体障害者スポーツ大会(パラリンピック)」が開催されました。

 東京オリンピック後は、第一体育館においては夏はプール、冬はアイススケート場としての設備機能を持たせ、またプールの上に床を張って体育館としての使用も可能にしました。

 昭和39年12月25日アイススケート場が一般公開されると、開場5年目の昭和43(1968)年に100万人、その翌年には200万人、10周年の昭和49(1974)年には300万人目の入場者がありました。

 オリンピックの翌年の夏には「こどもプール」を公開し、その翌年には各種スポーツ教室を開講するなど霞ヶ丘競技場と同様にスポーツの底辺拡大を図り、市民スポーツの場としてのスポーツ振興策が実施されていきます。

 スポーツ競技においても、「世界フィギュア選手権大会」や「アイスホッケー世界選手権大会」などスケートの国際大会利用が増え、昭和52(1977)年11月にはアイススケート場の上に床を仮設しての「第2回バレーボールワールドカップ‘77大会」が開催されました。氷の上に床を張って実施し、翌年5月には「国際ロータリー年次大会」を開催するため、プールからフロアーに転換して実施しました。

 このフロアーとしての活用は、建設当初の基本計画から指向されており、代々木競技場が完成してから13年の歳月を経て、多目的競技施設としての今後の有効利用を可能にしました。

 その後も、新たな事業が展開されます。昭和58(1983)年には第一体育館で初めてのコンサートが行われ、「文化施設」としての顔も持つようになります。

プール時の写真
【プール時の様子】

アイススケート場一般公開の写真
【スケート一般公開時の様子】

現在の競技フロアの写真
【現在の競技フロアの様子】


 代々木競技場は、完成以来半世紀を経ていく中で、利用者の安全を確保すると共に、建造物としての高い芸術性を損なうことなく、幾度かの大規模な改修工事を行ってきました。

 そして、渋谷の街同様、時代の流れに対応しながら様々に利用されてきました。今後も立地条件を活かし、時代の要請に応えながら幅広く利用されるように努めていきます。

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