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秩父宮ラグビー場の歴史

昭和20年代

 戦前関東のラグビーの試合は、明治神宮競技場を専用グランドに近い格好で使用していたが、戦後アメリカ軍に明治神宮競技場は接収されて「ナイルキニックスタジアム」と名を変え、日本人は自由に使うことができない状態でした。

そのため、ラグビーの試合は、神宮球場や後楽園球場(現東京ドーム)で行わざるをえなかったのです。

関東ラグビー協会は、昭和22年頃から新しい専用ラグビー場を建築すべく、候補地捜しをしました。そのような中、明治大学出身で協会理事であった伊集院浩 氏が見つけてきた土地が、現在の秩父宮ラグビー場、当時女子学習院の焼け跡で、アメリカ軍の駐車場になっていたこの地でした。

香山蕃理事長(当時)の戦災火災保険金と各大学OBの浄財等によって、建設資金のめどがつき、ラガーマンの汗の勤労奉仕が加わり、昭和22年11月「東京ラグビー場」が完成しました。

「その集めた資金は血のにじむような尊い結晶でありました。あるものは時計やカメラ、またあるものは家のじゅうたんを売ってひたぶるに自分たちの心のふるさとをきずきあげようという情熱に燃えた。
  工事が始まったある日、雨のふるなか秩父宮様がこられご病身をかえり見ずゴム長ぐつを履かれて励まし下され、鹿島の関係者に“ラグビー協会は貧乏だからよ ろしくたのむ”と頭を下げられました。私は流れる涙をこらえることが出来なかった」と後日、香山氏は毎日新聞の中で感動的に綴っています。

昭和27年9月8日、厳選された最高のメンバーのオックスフォード大学が来日しました。この時の9月14日の第1戦、既に10年余にわたる病身であったにもかかわらず秩父宮殿下は残暑厳しいグランドに降り、選手一人一人に握手をされました。

この翌年の1月4日午前4時半、藤沢市鵠沼の別邸にて、秩父宮殿下は50歳に満たぬ年齢で逝去されました。昭和28年、秩父宮殿下のご遺徳を偲び「秩父宮ラグビー場」と改称され国立競技場に移管された現在も通称として使われています。
オックスフォード大学来日の前には、土を盛り上げただけだったスタンドを、鉄筋のメインスタンドとし、「ノーサイドを心から楽しみ合えるクラブハウス」が出来上がる。 

昭和30年代

昭和30年代は、年度ごとにラグビー場の借地料が増え続け、総額3000万円を超える事態となり、昭和37年10月に国立競技場に移管される。そして、昭 和38年には夜間照明及びメインスタンドの屋根の設置等が行われ、昭和39年東京オリンピック時にはサッカー競技の会場となるためスタンド改造やグランド 改良工事、芝張り等が行われる。

昭和40年代

東京オリンピック後の昭和40年秋より、「勇壮な競技を通じて知らず知らずの内に自主自律の精神を培う」目的で「少年ラグビースクール」が開講されました。


昭和46年9月、新しいクラブハウスが出来上がり、最初の試合はイングランド代表とのテストマッチであった。このゲームでラグビー場は大観衆であふれ、グ ランド周囲の芝生にも観衆をいれざるをえなかった。この超満員の教訓がきっかけとなり、大改修が行われることとなったのである。

対イングランド代表戦に大観衆が殺到した

昭和50年代

この工事は、狂乱物価、石油危機などのため着工が遅れる羽目となったが、メインスタンドを中心とした改修工事は3年余りの月日を費やし、昭和51年9月完了しました。この工事によって約2万1400人を収容できる施設となりました。

そして、昭和53年、56年には、人工芝練習場(テニスコートと併用)が完成し、昭和55年には南側スタンドが新設され、収容人員2万3500人となりました。

昭和51年の大改修時からラグビー協会が熱望していた、バックスタンドを中心とした改修工事が、昭和61年からはじまる。これによって収容人員は3万490人となりました。

昭和51年9月 改修工事完了後の秩父宮ラグビー場
昭和51年9月 改修工事完了

平成

平成15年には電光表示設備設置工事を完了し、表示設備を改修しました。


その後も改修工事を重ねてきましたが、平成21年には、ラウンジの新設、体格のいい選手が不自由なく使える便座の大きなトイレの設置、幅の広いロッカーの 設置やアイスバスの設置等、外国の選手を迎えても対応できるように改修工事を行い、ジュニアワールドカップを迎えました。また、2019年のラグビーワー ルドカップの日本招致も決まり、これからも青山の地で歴史を刻んでいきます。


秩父宮ラグビー場は、往年のラガーマンはもちろん全ラグビーファンにとっての「聖地」であるといえます。

 

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