スポーツキャリアとは

ロールモデル紹介

花岡伸和。高校3年生のときにバイク事故で車いす生活となるも、パラ陸上競技と出会い、競技の道へ。車いすマラソンで2度のパラリンピックに出場。引退後は大学院でコーチングを学び、若手選手の指導のほか、日本パラ陸上競技連盟副理事長としてパラスポーツの発展に尽力しています。

約15年にわたる現役生活の中では、公務員から一般企業に転職、仕事を辞めて競技に専念するなど、ライフステージごとに大きな選択をしてきたといいます。


花岡さんのスポーツキャリア
  • 小学校低学年で水泳と体操を習う。しかし、できない体験がトラウマになり、苦手意識が残る。
  • 小学5年のとき、強くなるために柔道を始める。
  • 高校で柔道部に入部。大阪府の国体強化指定選手になる。
  • 1992年、高校3年の秋に交通事故で下半身不随となり、リハビリ期間中に車いす陸上競技の存在を知る。高校卒業の翌年、専門学校に通いながら車いす陸上を始める。公務員として就職後は大阪市長居障がい者スポーツセンターを拠点にトレーニング。
  • シドニー2000パラリンピックに向けた強化指定選手となるが代表は逃す。
  • 2001年、自動車部品の工場に転職し、大分を拠点に活動。翌年トラック1500mとマラソンで日本記録を樹立。
  • 2003年、東京に拠点を移してトレーニングに専念。
  • アテネ2004パラリンピックのマラソン男子(T54)で日本人最高位の6位入賞。
  • 2005年、車いすメーカーに転職。広報業務をしながら北京大会を目指したが代表選考落選。
  • 2011年、大手アパレル企業に所属。
  • ロンドン2012パラリンピックのマラソン男子(T54)で5位入賞。
    同年引退。パラ陸上競技のクラブチームを立ち上げる傍ら、パラサイクリング競技にも挑戦。
  • 2016年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程入学。2017年同課程修了。
  • 現在はコーチのほか、日本パラ陸上競技連盟副理事長として選手強化や普及活動を行っている。

卒業目前の事故、将来に向けた最初のキャリア選択

車いすマラソンで2度のパラリンピックに出場し、輝かしい成績を残した花岡さん。昔からスポーツ万能だったのかと思いきや、意外にも幼少期は運動が苦手だったといいます。

「小学校低学年の頃に水泳と体操を習ったのですが、どちらもできない体験ばかりで嫌な思い出しかありません(笑)。同級生はみんな少年野球をやっていたけれど、僕はボール投げも苦手。体育の球技やマット運動も憂鬱でした。クラスで一番体が小さくていじめられっ子だったのですが、5年生で柔道を始めてからは少し自信がつきました。高校では柔道部に入部。公立の割にはレベルが高くて大阪府大会で団体3位にまでなったんです、自分はメンバーではなかったですけどね(笑)」

高3の夏までは柔道に打ち込んでいた花岡さんですが、部活を引退してからは好きなバイクを乗り回す日々だったといいます。当時は卒業後の進路をどう考えていたのでしょうか。

「あまり考えてなかったんですよ(笑)。柔道部の先輩で何人か警察官になった人がいて、僕も試験を受けたのですが、あえなく不合格。その後、友達が介護の道に進むというのを聞き、母の勧めもあって介護福祉士の専門学校に行くつもりでした。そんな矢先に事故を起こしてしまったんです」

高3の11月3日、バイクで山道を走行中にガードレールに衝突。脊髄を損傷し、下半身不随となってしまった花岡さん。リハビリを含め、入院生活は7ヶ月にも及びました。

「病院では車いすでも不自由がないので、悲壮感みたいなのは実はあまりなかったんです。ただ、年が明けて1月後半に病院から車いすで初めて登校した日、みんなが体育の授業を受けているのを見て突然ボロボロ泣いたのは覚えています。ちょうど進路指導の先生が一緒にいて、ひとしきり泣き終えた僕に『落ち着いたか?じゃあこれからのことを一緒に考えよう』と言ってくれた。留年するか、がんばって卒業するかを選べと言われて、そこからは『みんなと一緒に卒業する』ことを目標に、リハビリと試験勉強にがむしゃらに取り組みました。無事に卒業できたことは、それまでの17年の中で最も大きな成功体験でしたね。退院後の進路としては、自立して生きるために公務員を選びました」

車いす陸上トップ選手との出会いが意識を変えた

公務員受験に向けて専門学校に通い始めた花岡さんは、同時期に上半身強化のために車いす陸上を始めます。

「水泳や球技は苦手でしたが、小さい頃から近所の野原を駆けまわっていたおかげで走ることは大好き。大阪市長居障がい者スポーツセンターに車いす陸上の練習を見学に行き、そこで出会ったのがソウル1988パラリンピックとバルセロナ1992パラリンピックに出場した山口悟志さんです。競技用の車いすやウェアを譲ってもらったり、仕事と競技の両立の仕方を教えてもらったりして大変お世話になりました」

就職前の約1カ月間、山口さんのアメリカ修業に同行するチャンスにも恵まれました。

「元世界記録保持者のジム・クナーブ選手と一緒に練習したのですが、そこで衝撃を受けたのが彼のセルフマネジメント力。トップ選手でありながらスポンサーとの交渉や取材の管理をすべて自分でやっている彼をみて、僕自身が持っていた障がい者像が根本から変わりました。自分のことは自分でやって当たり前。その後の仕事や競技生活でも、誰かに言われてやるんじゃなくて、自分で何をしたらいいかを考えるようになりました」

帰国後、高齢者施設で働き始めた花岡さんは、その言葉どおり仕事に邁進。高齢者が多様な人と交流できるように小学校の体験学習やボランティアの受け入れを発案し、自ら窓口となって奔走しました。

「この頃、僕の中の優先順位は、1番が仕事で競技は2番目。朝9時から5時まで仕事をした後に車で1時間ほどの練習場へ行き、夜9時まで練習するという毎日でした。シドニー2000パラリンピックに向けた強化指定選手にも選ばれましたが、本大会への出場は叶いませんでした」

競技を最優先し、よりよい環境を選択

この出来事を機に、25歳の花岡さんは次のステージへ向け、新たな道を選びます。

「仕事を通じてさまざま年代の人たちと関わり、人生を俯瞰的に見る中で、人生にはステージがあるのだと学びました。高齢者の施設ですから亡くなる方もいましたし、僕自身があの事故でもしかしたら死んでいたかもしれないという思いが強くあった。誰でも死ぬなら、生きている間に何かしなきゃいけない。じゃあ、4年後のアテネ2004パラリンピックに出るためにはどうしたらいいかと考えた結果、僕の中の優先順位の1番が仕事から競技へと変わり、より競技に集中できる環境を求めて転職を決めました」

パラアスリートを雇用する企業がまだほとんどない時代。花岡さんは先輩アスリートに相談し、そうした企業の先駆けである大分の特例子会社に入社しました。その会社では朝9時から3時まで自動車部品のライン作業に従事し、3時以降は練習に専念する毎日。

「仕事自体は単純作業の繰り返し。でもここで忍耐力と完遂力を身に付けることができたと思っています。入社後しばらくしてから、会社に直談判して1時上がりにしてもらい、トレーニング時間を増やす努力もしました」

練習量と比例するように記録が伸び、翌年にはトラック1500mの日本記録を樹立。より高みを目指した花岡さんは、28歳でさらなる決断をします。退職をして単身東京に移り住み、アテネ2004パラリンピックまでの1年間をすべて競技に費やすことにしたのです。将来への不安はなかったのでしょうか。

「公務員を辞めた時点で覚悟を決めていたので、不安はなかったです。パラリンピックに出場することがそのときの僕にとって最優先事項でしたから、背水の陣で臨みました。生活費はそれまで貯めていたお金と年金。自力で支援者に交渉もしました。すべて自分でやらないといけなかったので、たくましくなったと思いますよ」

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