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国立競技場の歴史詳細

 建設から56年、陸上競技・サッカー・ラグビーの「聖地」として様々な歴史を刻んできた国立競技場(正式名称:国立霞ヶ丘競技場・陸上競技場)。東京オリンピックの開会式の会場であったことは有名ですが、実は、その少し前に開催されたアジア大会のために建設されたというのはご存知でしょうか?
 国立競技場はいつ、どのように建設され、どのような歴史を辿ってきたのでしょうか。その歴史は、大正時代まで遡ります。

~ 日本で初めての本格的陸上競技場の誕生 ~

 国立競技場の前身は「明治神宮外苑競技場」(以下、神宮競技場)であり、日本で初めての、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地に建設されました。神宮競技場は、大正8(1919)年12月に工事が着工されましたが、その後、物価の高騰や関東大震災の被災者の収容施設になるなどで工事が中断され、大正13(1924)年3月にようやく工事が再開され、同年10月に完成となりました。
 この神宮競技場は、陸上競技のみならず、サッカー、ラグビーなども行われ、総合競技場として利用されていました。陸上競技では、織田幹雄氏が三段跳で、南部忠平氏が走幅跳で世界記録を樹立するなど、多くの名選手を生み出しています。一方で、第2次世界大戦中に学徒出陣の壮行会が行われたり、敗戦後は連合軍に接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と名をかえて使用されたりと、暗い時代もありました。
明治神宮外苑競技場画像
明治神宮外苑競技場
メインスタンド側画像(直走路は200m)
メインスタンド側の直走路は200m

~ 日本の競技場から国際的な競技場へ ~

 敗戦から数年後、日本は、「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」として、オリンピック招致の声明を出します。そのための国際的なアピールとして、昭和33(1958)年、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として生まれ変わったのが国立競技場です。
 国際大会の舞台となる競技場の建設は、神宮競技場の取り壊しから始まりました。建設計画の中心人物は、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄氏と設計・デザインの片山光生氏。着工は昭和32(1957)年1月で、大会を2か月後に控えた昭和33(1958)年3月、ついに完成となりました。
 そのアジア大会が成功裡に終了し、東京オリンピックの招致も実現すると、国立競技場は、まさしく日本を代表する国際的競技施設という存在を国内外にアピールしていくこととなります。
国立競技場(昭和33年)
完成した国立競技場(昭和33年)
アジア大会ポスター  アジア大会聖火台
第3回アジア競技大会

~ アジアで初のオリンピックの開催 ~

 東京オリンピックを2年後に控えた昭和37(1962)年3月、競技場の拡張工事が開始されました。主な内容は、収容人員増のためのバックスタンドの増設、正面スタンドから見て右側にあった聖火台のバックスタンド中央への移設、グラウンド地下道の新設、電光掲示盤や夜間照明設備の改修などでした。
 そして、昭和39(1964)年10月10日から24日までの15日間、94か国・5,558名が参加した「第18回オリンピック競技大会・東京大会」が盛大に開催され、改装された国立競技場では、開・閉会式及び陸上競技、サッカーの決勝と3位決定戦、馬術の大賞典障害飛越が行われました。
改修工事後の国立競技場画像
改修工事後の国立競技場
東京オリンピック(開会式)
第18回東京オリンピック(開会式)

~ 東京オリンピック以降の施設運営 ~

 東京オリンピックを成功させ、国立競技場は総合競技場としての各種施設設備を完備し、名実ともに日本最高、最大のスポーツの殿堂となりました。施設は国の出資によるものであるため、競技場は国民のために真の意味でのスポーツ振興に努力する義務を負うことになります。折りしも、オリンピックを機に国民の間でスポーツに対する関心が高まり、スポーツを愛好する国民の層が急激に増加したため、その期待に応えるべく、室内水泳場での水泳教室、体育館での体操教室、トレーニングセンターやスポーツサウナの新設などの新規事業が、スタンド下の有効活用や体育施設運営のモデルケースとして開設されました。特に昭和41(1966)年に開設されたトレーニングセンターは、400mトラックの一般開放、雨天でも走れる3階回廊コースの設置、最新機器を備えたジムにより利用会員数が急増しました。国立競技場は、国際的な総合競技場であると同時に、スポーツの底辺拡大を図り、市民スポーツの場としても全国の公共施設のモデルとなったのです。
 昭和34年設置25m室内水泳場
昭和34年に設置された25mの室内水泳場
 昭和41年開設のトレーニングセンター
昭和41年に開設されたトレーニングセンター

~ 国立競技場の新たな挑戦 ~

≪芝生の変遷≫
  国立競技場のフィールド内の芝生は、建設当時は「野芝」を採用、昭和36(1961)年からは、東京オリンピック開催決定を受けて「姫高麗芝」を採用していました。しかし、東京オリンピック後は競技場の利用頻度が増し、春から繁殖する姫高麗芝の生育状況では春・秋のスポーツシーズンの維持管理が困難となりました。
 そこで、昭和44(1969)年、利用の少ないオフシーズン(6~8月)に育成管理の重点を移し、芝種も夏期に繁殖力の旺盛なバニューダ系芝(ティフトン芝)を採用し、以降ティフトンでの維持管理を継続してきました。
 また、平成元(1989)年からは、サッカー・ラグビーの競技が集中する冬期間の芝生維持を目的に、ウィンター・オーバー・シーディング(二毛作)によるペレニアル・ライグラス(冬芝)の育成管理を手掛け、年間を通じて緑の芝生を保ち、コンディションの向上を目指しました。
 これまで、芝種を替えるごとに実験・研究を重ねてきましたが、中でもウィンター・オーバー・シーディング方式の導入は、競技場として大きな挑戦となりました。

 ウィンター・オーバー・シーディング方式の導入のきっかけとなったのは、昭和56(1981)年から日本で開催されたサッカーの「トヨタカップ」でした。
 トヨタカップの開催時期は12月。当時の競技場の芝生は冬になると茶色く枯れることが当然でした。ところが、試合のために来日したヨーロッパチームの監督が、前日練習後に「明日の試合会場はどこなんだ?」と競技場のスタッフを呼び止めたのです。ヨーロッパでは冬でも緑の芝生で試合をすることが常識。枯れた芝生で試合をすることに対する皮肉だったことに後に気づきます。

 この出来事をきっかけに、競技場はさまざまな解決策を模索することになります。どうすれば年間を通じて芝が緑色を保つのか。ヨーロッパの芝を取り寄せても気候の違いから夏に枯れてしまいます。水やりや肥料の工夫はもちろん、枯れた芝生を緑に着色したこともありました。

 そのうち、オールシーズン美しい芝生を保っているアメリカのゴルフ関係者との出会いがあり、ウィンター・オーバー・シーディングという二毛作の工法を知ることになります。二毛作の工法は、理論的に可能とはいえ、スタジアムでの維持管理のノウハウはなかったため、手探りの中で試行錯誤を積み重ね、平成元(1989)年にようやく確立されたのです。

≪文化的行事への取組み≫
 平成8(1996)年6月、当時世界3大テノールとして人気を博していたオペラ歌手のコンサート「3大テノール日本公演」が行われました。国立競技場で大がかりな音楽イベントが開催されるのはこれが初めてで、デリケートな芝生の上にいかに1万8000席もの座席を設けるかが最大の課題でした。数日間のイベント開催によって、実際に芝生がどのようなダメージを受け、どのように回復していくのか。前例がないだけに主催者と十分協議をしながら海外の事例などをもとに、 芝生の上に養生材を敷き、その上に観客席を設置する準備が慎重に行われました。
 公演は大成功を収め、有料入場者数はこの年の国立競技場の第1位を記録し、芝生の管理においても今後の文化的行事実施への門戸開放を後押しする出来事となりました。

 こうして国立競技場は、スタジアムの多角的運営の面でも全国のスポーツ施設の先駆けとなっていったのです。

~ 国立競技場の芸術作品や記念作品 ~


 東京オリンピック当時、スポーツに対して人々の関心が高まり、スポーツのなかに「競う」ことだけでなく「美」を追求するという考え方が芽生えてきました。国立競技場は各企業の援助を受け、芸術作品を設置することになり、国立競技場の芸術作品群はスポーツのもつ「力と美」の象徴となりました。

 国立競技場記念作品等一覧[PDF](1.12MB)

 ここでは、その記念作品の代表ともいえる聖火台製作の物語をご紹介します。

  国立競技場の建設には細部に至るまで当時の最新技術が駆使されましたが、そのなかで日本伝統の職人技術によって作られることを望まれたのが、競技場の象徴たるべき聖火台でした。大和魂具現化の重責を担ったのは、埼玉県川口市の美術鋳物師、鈴木萬之助さん。

 昭和32(1957)年12月17日、68歳の萬之助さんは「生涯最後の仕事」として、長男幸一さん、三男文吾さんとともに聖火台鋳造工事を開始します。寄る年波と持病の喘息に苦しみながらも、萬之助さんは誇りをかけて鋳造に取り組み、翌年2月14日、のべ130人の働きにより鋳型が完成しました。しかし翌日、摂氏1400度の溶けた鋳鉄を鋳型に流し込む湯つぎ作業で鋳型が大破。全精力を傾けた2か月間の作業が無となってしまったのです。長い職人生活で培われた自信は泡と消え、そのからだにもう余力はなく、萬之助さんはその夜から床に伏し、8日後に帰らぬ人となりました。

 非業の死をよそに、聖火台の製造期限は1か月後に迫っていました。父の無念を晴らすべく、失敗の翌日から長男、三男に次男の常雄さんを加えた3人の息子とその家族が総出で突貫工事にあたり、聖火台は納期直前にみごと完成します。

 そして昭和33(1958)年5月24日、アジア大会の開会式で聖火台に灯がともり、6年後の東京オリンピックが実現。聖火台は以後、毎年10月10日前後に三男文吾さんの手で丹念に磨かれ続け、平成20(2008)年に文吾さんが他界された後も、弟や息子たちに引き継がれていきました。

 鈴木家の魂が宿る聖火台は、誕生から約半世紀の間、国立競技場の高みから数々の名勝負を見守り続けてきましたが、新国立競技場建設に伴い、平成26(2014)年5月末をもって一旦の役目を終えました。

聖火台


~ 日本のスポーツの聖地として ~


 アジア大会、東京オリンピックが終了してからも、国立競技場は、昭和42(1967)年のユニバーシアード東京大会をはじめ、天皇杯全日本サッカー選手権大会、全国高校サッカー選手権大会、ラグビー大学選手権大会、ラグビー日本選手権大会、東京国際(女子)マラソン、サッカートヨタカップなど、国内外の様々な大会に利用されてきました。
 平成3(1991)年8月に開催された第3回世界陸上競技選手権大会や、平成5(1993)年Jリーグ開幕戦なども、歴史に残る行事として記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。

ユニバーシアード東京大会
ユニバーシアード東京大会(S42)
世界陸上競技選手権大会
世界陸上競技選手権大会(H3)
Jリーグ開幕式
Jリーグ開幕式(H5)

三大テノール日本公演
三大テノール日本公演(H8)

パブリックビューイング
パブリックビューイング(H14)

トップリーグ開幕式
トップリーグ開幕式(H15)

 その国立競技場も、2020年に東京オリンピック開催が決定し、姿は変わりますが再びオリンピックのメインスタジアムになります。オリンピック開催決定をきっかけに、日本におけるスポーツの価値や社会への役割の重要性は今後さらに増していくでしょう。旧国立競技場がそうであったように、新しい国立競技場においても過去の歴史を継承しつつ、新時代のスポーツや文化の在り方を発信していけるスタジアムとなるよう、取り組んでいきます。

スタンド全景

 

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