春の高校バレーを振り返って

第40回記念大会(2009年)入場行進風景
第40回記念大会(2009 年) 入場行進風景
第34回大会 成徳学園(現下北沢成徳)高等学校
木村沙織選手
第34回大会 成徳学園(現下北沢成徳)高等学校 木村沙織選手

"春の高校バレー"全国高等学校バレーボール選抜優勝大会が、初めて国立代々木競技場第一体育館で開催されたのは昭和60(1985)年、第16回大会でした。それ以前にも、代々木第二体育館で準決勝以降を行ったことはありますが(昭和54年、第10回大会)、主に東京体育館をメイン会場として開いてきました。また、この年、会場の移動と同時に、3月下旬から4月上旬にかけての会期を、3月21日から25日に固定しました。選抜高校野球との重なりを避けて、高校バレーにより注目が集まるように日程調整をしたのです。

記念すべき"代々木初優勝"は、男子が2mエース蔭山弘道を擁する習志野(千葉)、女子は将来のオリンピック選手・大林素子、高橋有紀子のいる八王子実践(東京)をストレートで下した古川商業(現・古川学園、宮城)。現在まで10度の全国優勝を誇る名門・古川商業のこれが"春高バレー"初制覇となりました。

以来25年、"代々木"は高校生バレーボーラーにとってまさに"聖地"となり、代々木のフロアーに立つことが"夢"となったのです。そして、"代々木"への移動と共に"春の高校バレー"自体が大きく成長を遂げました。

元号が「平成」となってすぐに開催された第20回記念大会では、従来の地区予選をやめて都道府県代表を選出し、東京と北海道が各2校、前年度優勝校、開催地代表を含めて男女各102校が出場、参加選手も男子604人、女子600人を数えました。男子は足利工大附属(群馬)、女子は順心女学園(東京)と共に関東圏のチームが初優勝を果たし、観客動員を含めて大成功を収めた大会です。首都圏の交通の要所に立ち、十分な観客収容を実現できる会場は代々木第一体育館しかなかったと言っていいでしょう。記念大会の好評を得て、翌21回大会から正式に出場校を男女計102校へ増やし(後に計106校)、世界へチャレンジする選手たちを輩出するために、ネットの高さが男子243cm(3cmアップ)、女子224cm (4cmアップ)と一般成人並みに改められました。そして、22回大会からコカ・コーラ杯が冠につき、FNS(フジネットワーク)26社(当時、現在は28社)が主催グループに加わり、"春高バレー"は高校スポーツの祭典としての地位を確立していきます。

第40回記念大会 試合風景
第40回記念大会 試合風景

また、第27回大会(1996年)では人気アイドルグループ "V6" が開会式に登場し、大会のイメージソングを歌い、踊りました。応援やバレーボール・ファン以外の中高校生の観客も集め、開会式が一気に華やいだムードに変わりました。以後、"嵐" "NEWS" "Hey! Say! JUMP"へと受け継がれ、新しいバレーボール・ファンの開拓に大きく貢献しています。

私が初めて"春高バレー"の舞台を踏んだのは、川越高校の監督を務めていた第7回大会(1976年)です。"代々木"に移ったあとは、坂戸西(埼玉)で4回出場しています。しかし、監督職以上に高体連専門部の強化委員長、専門部長として多くの部分を"春高バレー"と関わってきました。大会実行委員長を務めた31回大会(2000年)から35回大会(2004年)までは、とりわけ思い出深い時代です。

32回大会は、21世紀の幕開けを象徴するように、将来性豊かな人材が多く輩出し、代々木第一体育館のオレンジコートを彩りました。いわゆる"メグカナ時代"のスタートです。栗原恵、大山加奈、荒木絵里香、石島雄介、越川優といった選手たちが、未来のオリンピック出場を予感させるプレーを随所に披露してくれました。

男子は石島率いる深谷(埼玉)が2度目の栄冠、女子は1年生エース栗原のいる三田尻女子(山口)が初優勝を果たしています。彼らが全日本の主力となった3年後のアテネで女子が、7年後の北京で男女ともにオリンピック出場を果たしたことを考えると、この時期の高校バレーがいかに充実していたか実感させられます。そして、栗原や大山、荒木、木村沙織、石島、越川らを大きく成長させるジャンプ台となったのが、"春高バレー"であり"代々木"だったのです。

また、翌33回大会から「入場行進賞」を新設しました。この「行進賞」は、前年大会でみごとな行進を披露した女子の中部商業(沖縄)に贈られた賞が起源となっています。以来、"春高バレー"の名物イベントとして、35回大会から始めた「応援大賞」と共に定着してきました。ちなみに第1回の入場行進賞は男子・深谷、女子・韮崎(山梨)が受賞しています。第1回応援大賞は文京学院大女子(東京)、高崎商科大附属(群馬)、米沢中央(山形)の3校が選ばれました。

第34回大会(2003年)洛南高等学校
福澤達哉選手
第34回大会(2003 年)洛南高等学校 福澤達哉選手

そして、2003年の第34回大会で"春高バレー"史上最多となる総観客動員数7万9千879人(7 日間)を記録。36回大会ではついに8万人を突破する盛り上がりを見せました。"春高バレー"の発展は、まさに国立代々木競技場第一体育館のオレンジコートと共に歩んできたと言っても過言ではありません。 代々木体育館の改修工事のため、38回大会(2007 年)だけは、さいたまスーパーアリーナで開催されましたが、翌年より再び"代々木"に戻って、高校生バレーボーラーたちの汗と涙を刻みこんできました。

今回、"春高バレー"の1月開催に伴い、長い間お世話になった代々木第一体育館を離れ、第1回から15回まで開催した古巣の東京体育館に会場を移すことになりました。私は高体連バレーボール専門部部長を退任した後に、日本バレーボール協会の中で国内の事業を統括する立場として国内事業本部長となり"代々木"がいつまでも"高校生バレーボーラー"にとって"聖地"であり続けられるように毎日奔走してきました。それだけに、3 月開催の"春高バレー"が最後を迎えたことは、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。1 月開催の"春高バレー"は、高校3年間の総決算の大会として、今まで以上にグレードアップした大会へ成長していきます。今後は、"高校バレーボールの殿堂"とまでいわれた代々木第一体育館で開催されてきた"春高バレー"の重みを十分に噛み締めながら、リニューアルされた春高バレーのさらなる伝統を築いていきたいと考えています

 

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