スポーツ医科学最前線

第14回  JISSにおける低酸素トレーニングの実際と更なる可能性

 

伊藤 穣(スポーツ科学研究部)

はじめに

  「他人と同じことをやっていては勝てない!」
  スポーツ選手を志したことのある人はもちろん、スポーツに限らず、現代の競争社会で生きていく上で、誰もが一度は耳にする言葉だろう。特に、山のように 大きなヨーロッパの選手やバネのような筋肉を持つアフリカの選手と競争することを強いられる競技スポーツの世界では、この言葉の意味するところは深遠であ る。生まれ持った体格や身体能力、すなわち身体資源に劣る傾向にある我々日本人にとって、常に新しい戦術やテクニック、トレーニング方法などを開発し「他 人と違うこと」を取り入れていくことは、国際大会で戦うための重要なポイントとなる。

  そう考えると、外界の酸素濃度を調節し、通常とは異なる環境で新たなトレーニング効果を得ようとする“低酸素トレーニング”の試みは、日本のスポーツ界 のニーズによく合致していると言える。本稿では、国立スポーツ科学センター(JISS)の特徴のひとつでもあるこの低酸素トレーニングについて、実際の活 用例と今後の可能性などを紹介する。

低酸素トレーニングとは

  高地のような空気が薄い場所(低酸素環境)では、体内に酸素を取り込みにくくなる。人間にはもともと周りの環境に慣れようとする適応能力が備わっている ため、そのような場所に長時間いると身体は様々な反応を起こし、必要な酸素量を効率よく取り入れようとする。この高地への適応能力を巧みに利用し、運動能 力の向上を引き出そうとするのが、“高地トレーニング”である。また、近年では、高地と同じような低酸素環境を人工的に作り出す(気圧はそのままで空気中 の酸素濃度だけを薄くする)ことが可能となり、平地にいても高地と同じような効果が期待できるようになった。この人工的な環境を用いたトレーニングが、い わゆる“低酸素トレーニング”と呼ばれている。

  低酸素トレーニングによって期待される効果は、競技種目やトレーニングの目的によって様々である。最も一般的なのは、マラソン選手などが持久力のアップ を目的として行う場合であろう。詳しい説明は専門誌に譲ることにするが、低酸素トレーニングは、血液の酸素運搬能力の向上や筋肉の酸素消費能力の改善をも たらし、有酸素運動時の持久力を向上させることが報告されている。さらに、低酸素トレーニングを高地トレーニングの直前に実施して高地馴化(高地に適応す ること)を促進したり、怪我などで十分な運動負荷がかけられない際の呼吸循環機能の維持に用いたりとその利用価値は高い。いずれにしても、その競技種目の 特性およびトレーニングの長期計画(期分け)や短期のトレーニング目的に合わせて、適宜かつ的確に取り入れるノウハウが必要となるのは、他のトレーニング 手段と同様である。

低酸素トレーニングの実際

  JISSには、72室の低酸素宿泊室と低酸素トレーニング室が設置されており、標高1500m~3500m程度に相当する低酸素環境下での滞在とトレー ニングの両方が可能となっている。実際、いくつかの競技団体には、JISSでトレーニングキャンプを行う際に、これらの低酸素施設を利用してナショナル チームの強化に役立てて頂いている。ここでは、水泳競技とカヌー競技の例を紹介させて頂く。

(1) 水泳競技の低酸素トレーニング

写真1 競泳選手の低酸素トレーニング。右上の表示は、高地トレーニングキャンプ地とほぼ同じ2070m相当を示している。
写真1   競泳選手の低酸素トレーニング
右上の表示は、高地トレーニングキャンプ地とほぼ同じ2070m相当を示している。
 
  近年、平泳ぎの北島選手を筆頭に活躍の著しい競泳ナショナルチームでは、既に20年以上も前 から高地トレーニングを実施している。したがって、そこで得られた経験とノウハウの蓄積から我々が学ぶべきことは非常に多い。最近では、高地トレーニング を効率良く行うことを主な目的として、フラッグスタッフ(アメリカ、標高2100m)やグラナダ(スペイン、標高2300m)でのトレーニングキャンプの 前後に、JISSにて低酸素宿泊および低酸素トレーニングを行っている(写真1)。一般に、高地トレーニングを行う際、最初の3日~1週間程度は、高地の 特殊な環境に身体を慣らすための馴化期間と位置付けられている。しかし、あらかじめ人工的な低酸素環境に曝されること(低酸素暴露と言う)によってその期 間が短縮され、より早い時期から本格的なトレーニングを開始することが可能となる。

  トレーニング中のJISS研究員の役割は、起床時および低酸素トレーニング時における心拍数や動脈血酸素飽和度※(SpO2) などをモニタリングし、選手の低酸素に対する馴化の程度やコンディションを把握することである。低酸素に対する馴化のスピードには個人差が大きく、さらに 低酸素暴露の経験の有無によっても左右される。選手一人一人の特徴を捉え、効果的なトレーニングを行うためには、詳細なモニタリングを行うことが重要なポ イントとなる。

(2) カヌー競技の低酸素トレーニング

写真3 カヌー選手の低酸素トレーニング。低酸素トレーニングの前後に行った漸増負荷テストの様子
写真2   カヌー選手の低酸素トレーニング
低酸素トレーニングの前後に行った漸増負荷テストの様子
 
  カヌー競技のナショナルチーム選手の多くは、JISS近隣にある戸田ボート場を拠点に水上トレーニングを行っている。したがって、通常のトレーニングに 加え、JISSのトレーニング施設を利用して強化を行うことが比較的容易である。また、優れた持久力を必要とするカヌー競技の種目特性から考えると、低酸 素トレーニングが有効である可能性は高い。そこで、ナショナルチームの監督との話し合いの上、10名(男性5名、女性5名)のナショナル選手を対象とし て、8週間(3日/週)の低酸素トレーニング(標高2000m相当)を試験的に導入した。トレーニングは、カヤックおよびカナディアンの専用エルゴメータ を用いたインターバルトレーニングであった。トレーニングの前後に、常酸素環境にて漸増負荷テストを実施し、その効果を評価した(写真2)。その結果、低 酸素トレーニングによってほとんどの選手の持久力(有酸素性能力)が向上し、カヌー競技にも低酸素トレーニングが有効であることが示された。しかし、中に はトレーニング期間中に疲労感や体調不良を訴える選手もいたので、より効果的な酸素濃度やトレーニング内容について、個人差およびコンディショニングの観 点からさらに試行を重ねていく必要がある。

 


低酸素トレーニングの今後の可能性


図1 低酸素トレーニングによるペダリングパワーの増加
図1   低酸素トレーニングによるペダリングパワーの増加
トレーニング前のパワーを100%とした相対値で示した.なお、低酸素群では、最初の2週間は常酸素環境下でトレーニングし、残りの8週間を低酸素環境下でトレーニングした.
 
  持久的なスポーツ種目で用いられることの多い低酸素トレーニングであるが、今後は、球技やスプリント競技など瞬発的な要素が比較的多い種目での活用が可 能となるかもしれない。JISSでは、そのような新たな可能性を見出すため、低酸素トレーニング法の開発に関する様々な研究活動もまた実施している。図1 は、その一例であるが、8週間(2日/週)の低酸素トレーニング(自転車エルゴメータの全力ペダリングを用いたトレーニング)によって、全力ペダリング時 の最高パワーが、常酸素環境下でのトレーニングよりも大きく増加した。このことは、使い方によっては、競輪競技など多くのスプリント的な種目の選手にとっ ても、低酸素トレーニングが有効である可能性を示している。実際の競技現場に応用するにはまだまだ課題は多いものの、実践している国が世界中どこにも見当 たらない(隠しているだけかもしれないし、実際その噂はある)現状を考えると、「他人と違うこと」として取り組むだけの価値は十分にあると考えられる。

おわりに

  当然のことだが、低酸素トレーニングは魔法ではない。あくまで、数あるトレーニング手段の中の一つの選択肢である。どんなトレーニング手段でもそうだと 思うが、研究として議論するだけでなく、トレーニング現場での実践とその積み重ねがなければ、本当の意味での発展はあり得ない。したがって、低酸素トレー ニングの更なる発展のためには、多くのスポーツ競技選手にJISSの低酸素施設を活用してもらい、その認知度を高めていく必要がある(実際には、宿泊室を 1部屋ずつ低酸素にするということが不可能なので、この点はできるだけ早く改善するべきであろう)。また、低酸素トレーニングに限らずとも、そのように実 際に現場(トレーニングの最前線)で活用していく中で生じた疑問や課題を研究に落とし込み、得られた最先端の研究成果を再び様々な競技現場のサポート活動 の中で還元していく、すなわち“最前線と最先端のスパイラル”を確立すること。それが、選手やコーチと共に金メダルへの果てしなき道を歩む、JISSにし かできない使命と考えている。

※動脈血酸素飽和度(SpO2)・・・動脈血中のヘモグロビンのうち、酸素と結びついているものの割合を表す。健常人の場合、平地では97~98%であるが、標高3000mではおよそ90%以下まで低下する。高地に馴化するにつれ、徐々に上昇する傾向がある。


※本文は「月刊国立競技場」平成16年2月号に掲載されたものを転載しました。

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